活字と越冬

怠けながら楽しく生きる invest energy in pursuing laziness

「死をポケットに入れて」チャールズ・ブコウスキーを読みかえす

自分は本読むの好きですけど、何度も読み返す本というのはほとんどない。
どんなに面白かった小説も一度読むとストーリーを記憶してしまって、2度目に読むと初めて読んだ時ほどの感動は得られない。

しかし、それでも折に触れて読みかえしたくなる本というのが何冊かはあるのです。
チャールズ・ブコウスキーの「死をポケットに入れて」もそんな本のうちのひとつ。

まず、タイトルがカッコいいと思うんですよね。「死をポケットに入れて」

そしてジャケットもカッコいい。
このイラストはロバート・クラムという人が書いていてMacに向かって執筆するブコウスキーが描かれている。

この本はブコウスキーが晩年に書いた日記をまとめたもの。
年老いてきて死期が近づいているのだけど別に暗い感じでもなく、いづれ訪れる「死」をポケットに入れておいて、時たま話しかけてみる。
『やあ、ベイビー、どうしてる?いつわたしのもとにやってきてくれるのかな?』

迫ってくる「死」にユーモアをもって対峙しているブコウスキーがカッコよくわたしには思えます。

そしてこの本は日付ごとに読み切りになっているので、(91年9月30日 11:36 PM みたいな感じで)電車の移動時間とか仕事の休憩時とかのスキマ時間で読みやすいのも魅力です。

心が疲れた時の精神安定剤として一錠口に放り込むみたいな読み方ができるのだ。

そして読むたびに色んな発見があったり、その時の自分の気持ちとリンクして励まされたり、笑わせてくれたりする。

人生に疲れたときはこんな文章をよく読みかえす。

p29-30(ページ数は文庫版のものです)
わたしは朝、靴を履こうとかがむ時、こう思わずにはいられない。
また一日がはじまる、やれやれ。
わたしは人生に痛みつけられていて、調子を合わせてうまくやっていくことができない。
わたしはそいつをちょっとかじってみなくちゃならない。
全部でなくてもいい。
ちょうど大量の糞を呑み込むようなものだ。
(中略)
わたしは自分の猫たちを見ていたい。
こいつらはわたしを和ませてくれる。
落ち着いた気分にさせてくれる。
だからわたしを人間の群れの中に放り込まないでおくれ。
決してそんなことをしないでおくれ。
とりわけ休みの日には。
やらないでおくれよ。

べつにアドバイスをくれる訳じゃないのだけど、人間調子が悪いときもあるし、こんなものだぜ。
でも、人生はシカトできねえから。ちょっとだけかじってみなきゃならねえ、と。

そしてこの日記の中にはよく猫が出てくる。ブコウスキーはかなりの猫好きのようで、自宅に9匹猫を飼ってる。自分自身も「猫になりたい」とかいってます。

(p60)
来世でわたしは猫になりたい。
一日に二十時間眠って、餌がもらえるのを待っていればいい。
ごろごろして尻を舐めていればいい。
人間は惨めで怒りっぽくて狭量すぎる。

そんでもって、老年のブコウスキーは文章を書くことを心から楽しんでいる。
書くことにどんな意味があるか。
ブコウスキーはこんな風に表現する。

(p81) 書くことの目的はまず第一に、愚かな自分自身の救済だ。

そう、書くことは「自分を救済することだ」と。
そして、書くためのマシーンも50年愛用し続けてきたタイプライターからMacへと変えた。
コンピューターを使って文章を書いて、効率がめちゃくちゃ上がってブコウスキーも感動するんですよ。

そして、一度書き始めて筆がノッてくると途中でトイレに行くのも惜しくなる。
この文章のグルーヴ感を止めたくない、って感じで。

(p86)
夜に向かってドアが開け放たれている。
わたしは寒さに縮みあがりながらこの場に座っているが、立ち上がってドアを閉めにいこうとはしない。
というのもこれらの言葉が今わたしの中から迸り出ていて、あまりにもいい調子なので、中断するには忍びないからだ。
しかし、こんちきしょうめ、わたしはそうするだろう。
わたしは立ち上がって、ドアを閉め、小便をするだろう。

そしてトイレにいったらシモの方に思考が移ったのか、上記の文章のあと、急に糞(shit)のことを考え出します。 ブコウスキーは文中によく糞(shit)が出てくるのですよ(笑)

(p86-87)
人はどれぐらい食べて、どれぐらい糞をするのか?
とんでもない量だ。おぞましい。
我々は死んでとっととこの世から去っていくのにこしたことはない。
我々が自分たちが大量に排泄するものであらゆるものを汚染しているのだ。
華麗に踊る娘たちもくそくらえだ。
彼女たちだって同じことをしている。

こんな文章読んでるとなんだか元気が湧いてくるんですよ、何故か(笑)

そんで日記も終盤の方になると面白いエピソードがあって、コンピューター(Mac)の調子がおかしくなるんですね。
なんか書いた文章が消えちゃうとか、急に画面に青い閃光が走るとか。
で、修理屋に店に行くと、なんと飼っている猫がコンピューターにオシッコをひっかけてたことが原因だったという(笑)
そんなオまぬけな話なのに、その話の最後の方では急に人生について真面目に語り出すんですよ(笑)
自分の思考の赴くままに書いてるから急に展開が変わるんですよね。
しかもなんかめちゃくちゃポジティブで良いこと言ってる(笑)ちょっとそこの部分を引用してみますね。

(p119)
(猫がコンピューターにオシッコをひっかけて壊してしまう話の後で)
わたしは誰と競い合っているわけでもないし、不朽の名声に思いを巡らすようなこともまったくない。
そんなものはくそくらえだ。
生きている間に何をするかが問題なのだ。
太陽の光が燦々と降りそそぐ中、ゲートがぱっと開かれ、馬たちが光の中を疾走し、所属の厩舎の派手な色の服と帽子を纏った小さくて勇敢な悪魔たち、すなわち騎手たちは、誰もが勝利をめざし、見事に自分のものにする。
行動と挑戦のなかにこそ栄光はあるのだ。死などどうだっていい。大切なのは今日、今日、今日なのだ。まさに然り。

大切なのは今日、今日、今日!!
そうだよな〜と思いつつ、まずは「目の前のことに全力で取り組もう」っていつもこの文章を読むと思う。
まあその気持ちは長くは続かないのだけど…

ブコウスキーはいままでの破天荒な人生を送ってきたけど、73歳にもなると身体もガタついているからいままでみたいな無茶ができない。
しかし、作家としては成功して自宅にはジャグジーだってある。
とある昼過ぎに自宅でのんびりしているブコウスキーの回もすごい好きな箇所なのでちょっと長めですが引用してみます。

(p106-107)
のんびりとした1日。
超大物にでもなった気分でスパに浸かる。
太陽が輝き、熱い湯がぶくぶくと泡立って、渦巻いている。
なんとも、ゆったりする。そうだろう?
力を蓄えるんだ。
もっといい気持ちになろう。
この世界は破れて中身がはみ出している糞袋だ。
わたしにはどうすることもできない。
しかしわたしのもとには、だめになってしまいそうな時、わたしが書いたものによって救われたと主張する人たちから、たくさんの手紙が届く。
しかしわたしはそんなことをしたいがために書いたわけではない。
私は自分自身を救い出すために書いたのだ。
私はいつも外側にいて、決して溶け込めなかった。

ところが、そうやってスパでのんびりしてたら、いつのまにかシリアスな思考になっていままでの人生を思い返すようになっていく。

(p108-109)
自分が大切に守っている心の中の秘密の世界があって、そこには何かがあった。
それが何であれ、何かがあった。
こうしてスパに浸かり、わたしの人生はそろそろ幕を閉じようとしている。
わたしは平気だった。
人生のばか騒ぎならしっかり見てきた。
それでも、わたしが闇に葬り去られてしまうまで、あるいはどんなところであれ追いやられてしまうまで、まだまだ書きたいことはいつでも生まれてくる。
それが言葉のいいところで、ひたすら前へ前へとリズムに乗って進み、さまざまなことを探り当て、文章を作り上げ、常に大騒ぎして盛り上がり続ける。
わたしの中には言葉が詰まっていて、今でもとてもいい形で溢れ出てきている。
私は運がよかった。
スパに浸かって。
咽喉炎で頭も痛い。
それでも果報者だ。
年老いた作家がスパに浸かって、物思いに耽っている。
いいぞ、いいぞ。
しかし地獄はいつもすぐ近くにあって、今にもその光景を繰り広げようと手ぐすねを引いて待ちかまえている。

人生のばか騒ぎならしっかり見てきた。
自分の人生が闇に葬られるまで、おれは書き続けるぜ。
カッコいいなあ。

この本はまた気持ちがくすぶっているときに紐解こうかと思います。